生い立ち


 1945年2月、戦争の終期、高知市で生まれ、空襲を避けて高知市の山手に疎開しました。
小学校3年の頃、父親の会社が倒産し、幹部として使用していた住宅をでて、父親は大阪に職を求めに出、 残された家族は山手に仮住まいしました。 そこでは虫、鳥を追い、魚を釣る毎日でした。
 小学校4年時に大阪市福島区に転居、また中学2年時に当時出来立ての豊中市内の公団住宅に転居しました。 淀川や片町線沿線のため池での魚釣り、草野球を思いだします。
 高校では、1年から家庭教師などアルバイトをやるなど金銭的には、かなり不自由な生活でした。文系のコースで、クラブは音楽部とハンドボール部に所属し、毎日ホールに出演したり、府下の高校へ試合に出かけるなど 慌ただしい日々でした。体育祭はリレーや1500m走で活躍しました。
(写真は、3年時の1500m走)
 大学は国際友好団体、文化団体はじめ、学生自治会、生協、日本共産党や民青同盟など、大変活発でした。1回生時に中国語科委員を担当し、日本中国友好協会に加入しました。
スポーツは陸上部、小さなクラブでしたから、やり投げ、円盤投げ、砲丸投げ、ハイジャンプ、3段跳びなどに出場しました。
(写真は、1回生時のやり投げ)
 また、音楽会や音楽映画を企画する朝日学生音楽協会の事務局に加わり、フェスティバルホールでの催しを“天井桟敷”からしょっちゅう鑑賞していました。
 1964年11月に米原子力潜水艦の佐世保入港に反対する集会とデモに参加し、翌年に原水禁世界大会に参加しました。原水禁運動や、平和の問題、日韓条約、日中国交回復、大学問題などで、共産党や他党派の学生とよく議論しました。こうしたなかで、主観主義ではなく、社会の現実をありのままに科学的に見ることの必要性を納得し、また、解釈するだけでなく変革する立場にたった生き方を選択する決意をして、66年1月に日本共産党に入党しました。
 3回生時に中国語科委員長を担当しました。また、後期から4回生にかけて、学生自治会の委員長を担当しました。このとき、外大生の要求地図を作成し、文部省交渉を求めてクラス代表・文系・体育系サークルの代表など10数名を上京させる大運動を展開しました。またこの頃、中国の「文化大革命」にともなって日本の中国研究や運動への干渉が激化し、毛沢東追随派も生まれましたが、学問や運動の自主性をまもるたたかいに全力をあげました。
 担当教授のすすめで言語学での大学院進学の準備をするため、最初の留年をしましたが、丁度、東大紛争があり、大阪でも外大はじめ多くの大学で、暴力学生らの大学封鎖がおこなわれました。要請があって、この夏から留年含みで、大阪府学生自治会連合の書記長を担当し、各自治会の指導、とりわけ大学紛争解決の取り組みに全力をあげました。この時期に、『資本論』や、教育・大学問題、イデオロギー問題などをよく学習をしました。
 府学連から大学に戻り、岡倉古志郎教授の指導を得て国際政治学の勉強をすすめていましたが、4月に卒論だけ残して留年、同時に在籍のまま日本科学者会議大阪支部の事務局員になりました。
 科学者会議では、鰺坂真さん、石井郁子さんらとご一緒に、科学の成果をひとびとの暮らしに生かす仕事をしてきました。たとえば@ダイオキシンや食品汚染、あるいは災害から健康や暮らしを守ること、地球環境を守り、住みよいまちをつくること。A小学校から大学までの教育の内容と制度をよくすること。B大阪の中小企業や農業を支援し、産業・経済を発展させること。C核兵器をなくし平和を守ること。などにとりくんできました。
当時激化の一途だった公害問題をかわきりに、28年間、大学問題・平和などあらゆる問題に取り組みました。会に持ち込まれるあらゆるテーマについて学習せざるを得ず、科学論・科学者運動の学習もふくめて、科学者会議が「私の大学」でした。とりわけ、自然科学者との共同は、地球環境問題に見られるような基礎的・基本的な知識をふまえた、総合的・学際的研究の必要性を実感するものでした。
 大阪での研究会やシンポジウム、市民大学の企画、他団体との共同の取り組み、会を維持する実務、また、全国の総合学術研究集会や各都道府県支部の運動をサポートする活動をすすめてきました。これらを通して、大阪だけでなく全国の多方面の研究者との交流ができたことは、大きな財産となっています。
産廃不法投棄現場を視察
市民講座を出版
沖縄の米軍通信施設視察
 ロッキード事件以来、宮本憲一・亀田得治氏らがすすめた「大阪アピールの会」の事務局を担当し、大阪で知識人が正論の論陣を張る運動にかかわり、無党派の方々の社会的力を結集するために努力しました。
 71年、黒田了一さんが府知事選に立候補することになり、この時以来、「大阪学者・文化人・宗教者・医師・法律家の会」の事務局で奮闘。78年から「明るい革新大阪府政をつくる会」の常任幹事を担当し、大阪府政の革新のために役割を果たしてきました。
 勤めはじめてから、関西合唱団の研究生で歌い、フェスティバルホールにも立ちました。また、毎年山にも登り。3000m級は大方頂上に立ちました。
少し岩を登りました。前穂高北尾根から奥穂高岳、西穂高岳へ 春・夏は家族旅行。この年は、西穂高岳へ スキーは、シーズンに2回行きます。志賀高原スキー場にて
 PTAの同好会は、ソフトボールとバドミントンに所属、ソフトでは、毎年東住吉区の大会に出場しました。 東住吉区では、保育所父母の会の役員、保育・学童保育の地域連絡会会長を永年務め、文化団体や新日本婦人の会、教職員組合などとともに「子育て・教育ネットワーク」の発足に尽力しました。
 また、「道路公害(泉北線)に反対し、東住吉区の環境を守り街づくりを考える連絡会」の結成に参加し、幹事・事務局を担当。2000年「美章園駅にエレベーター・エスカレーターの設置をもとめる会」発足とともに世話人を担当して、運動に参加しています。
白鷺中学で6校対抗戦(北田辺小チーム) 教育ネットの発足の集い バリアフリー調査・神戸中埠頭(近大三星教授案内で)
 01年、イギリス映画『ブラス!』を区民ホールで上映。実行委員長ををつとめ、現在東住吉区キネマクラブ会長。この11月2日には、「まのあけみコンサート」に取り組みました。
 99年・2003年春のいっせい地方選挙で、府会(東住吉区)候補者、2000年3月市議補選(東住吉区)候補者として奮闘。
また、衆議院議員石井いく子秘書、石井事務所長としても、国政革新をめざす活動の先頭にたってきました。
この間、「介護保険」や「医療制度」「児童扶養手当」、ホームレス、教育、相互信用金庫破綻等々の問題で、学習会や懇談会などにとりくんできました。
介護保険実施にあたっての説明会 知事候補の鰺坂真さんと 原水禁大会に向けた平和行進に参加



略 歴


●生まれ 1945年高知市で生まれる
●現 職 日本共産党大阪二区地区国政対策委員長
●学 歴 大阪市立福島小学校卒業/豊中市立第3中学校卒業/大阪府立豊中高校卒業/大阪外国語大学卒業
●活動歴 大阪外国語大学中国語科委員長/大阪外国語大学自治会委員長/大阪府学生自治会連合書記長/
日本中国友好協会大阪府連理事/日本科学者会議全国幹事/日本科学者会議大阪支部常任幹事・事務局次長/
大阪学者・文化人・宗教者・医師・法律家の会事務局員/明るい革新大阪府政をつくる会常任幹事/
東住吉区保育・学童保育運動連絡会会長/東住吉区子育て・教育ネットワーク代表委員/
道路公害に反対し,東住吉の環境を守り街づくりを考える連絡会幹事/
美章園駅にエレベーター・エスカレーターの設置をもとめる会世話人/東住吉区キネマクラブ会長/東住吉民主商工会顧問/
勤労者ソフトボール連盟顧問/府会議員選挙候補者(東住吉区)/市会議員補欠選挙候補者(東住吉区)/
衆議院議員石井いく子秘書・事務所長/日本共産党大阪二区地区常任委員/日本共産党大阪二区地区国政対策委員長
●現住所 大阪市東住吉区北田辺3−10−27
●家 族 妻、1男、2女
●趣 味 読書、音楽鑑賞、映画鑑賞、スポーツ(山登り、スキー、ソフトボール、バドミントン